ラブドールを愛したいのに愛せない、モノという認識から離れられない
という相談を連絡フォームから頂きました。

自分好みの衣装を着せたり、一緒に入浴したり、話しかけたり、「努力」してもモノという感覚から離れられず、ラブドールを愛していると言えるほどの存在には感じられない。彼女を愛したいと真剣に必死で思っているのに、という相談です。
ハンドル名もメールアドレスの記載もなかったため、こちらの記事で回答させて頂きます。
問題があれば(記事にはしてほしくなかった!等)この記事を撤去しますので、お知らせください。
先にぼくの率直な感想を言ってしまうと、モノと認識して何が悪いのかということです。日本人はモノの擬人化とか超得意じゃないですか。「モノごころモノむすめ」とか大好物なんですケドw
…………なんてことを言っても話が進まないのでw
なぜ愛さなければいけないと感じてしまったのか、少し掘り下げて考えてみたいと思います。
ぼくのドールさんに対する考え方は今までも散々このブログで書いてきましたし、古くから読んでいる方にとっては耳タコな話かと思いますので、古参の方はスルー推奨ですw
ラブドールは良くも悪くもニッチなジャンルですし、どう言い繕ってもホールポケットがある以上、アダルトグッズですので、大手メディアでは扱いづらく、必然的に個人ブログの影響が大きくなります。
また、(ぼくも含めて)個人でブログを立ち上げてまで主張したいことがある人間なんてそりゃ一癖も二癖もあります。ありまくります。
実際、ぼくがはじめてラブドールを知った頃、実物は本当にこんなに美しいのか、またどんな人が購入しているのだろうかと片っ端からブログを読み漁りましたが、妄想日記ブログの多いこと多いこと。
正直に書きますが、はじめてラブドールブログでドールとオーナーの寸劇を読んだときは鳥肌が立ちました。無機物に話しかける様を想像すると、なにか宗教的儀式のようにすら思えたからです。
(むしろラブドールのぶっかけ写真を公開している人のほうが理解できましたw)

でも、そんなふうに引いてしまったのも最初の数件のブログ記事を読む間だけのこと。様々な種類のブログを読んでいくと、だんだんとこれは創作小説と何が違うのだろう、と思い始めました。
これを気持ち悪いと言ったら、小説家、作家、想像力の翼を広げるすべてのクリエーターを否定することになるのでは、と。
もちろん全員が全員想像力豊かで、ラブドール官能小説、あるいはラブドール恋愛物語を書き綴っているわけではありません。そういう人もいれば、そうでない人もいる。心からドールさんに魂が宿っていると信じている人だっているでしょう。
単にぼくは個人的に前者(妄想作家)なら理解できるし、自分もやってみたいな、と思ったというだけの話です。
マイナーな趣味同士、同じことを同じ目線で語り合えるのは嬉しいですし、楽しいことですから、見知ったブログでやっていることを自分も同じようにやらなければならないと錯覚するのも仕方ありませんが、なにもすべてを受け入れなくたって構わないでしょう。
みんなラブドールときゃっきゃうふふしてるし、楽しそうに脳内会話してるし、自分もラブドールをお迎えしたらそうなるハズ!そうしなきゃ…なんでそうできないんだ…!! そんなふうに思い悩むのはちょっと違う気がします。
単にアダルトグッズとして、あるいは着せ替え人形として、カメラの被写体として楽しんでいる人だっているし、それらを複合的に楽しむ人もいる。
なんだったら毎日違っても良いじゃないですか。昨日はドールさんとの妄想会話を楽しんだけど、今日は単に被写体として楽しむ。好きにすれば良いのです。ブロガーの真似をする必要なんて全くありません。
ブログもメディアといえばメディアですが、もっと一般向けのテレビや雑誌でも度々ラブドールが取り上げられることがあり、そこで目にしてラブドールの存在を知ったという人も少なからずいるハズです。そういった意味ではラブドールがメディアに露出するのは悪いことばかりではありません。
でも、深夜のテレビ番組で、ラブドールとちゅっちゅする独身男性を取材する番組があり、これには閉口しました。実際、メディアが求めるのはわかりやすいインパクトなんですよね。
さもラブドールを恋人あるいは嫁として扱うのが当たり前かのように喧伝されますが、決してそういう人ばかりではありません。
ぼくも以前の記事で書きましたが、ブラジルのテレビ局から取材の申し込みがあり、自宅で取材させてくれないか、顔は隠すのでラブドールと一緒のところを映させてもらえないか、動画がダメなら写真でもいい、とグイグイこられました。
最終的にラブドールの写真提供と音声取材だけなら協力しても良いよ、と妥協点を見出しましたが、相手はかなり不満そうでしたね。
質問の内容も名前は付けているのか、普段呼びかけているのか、どこを好きになったのか、人間と変わらないように見えるし、この子を彼女と感じても不思議ではないと思うがどうか、とだんだんとむこうの都合の良いように誘導されていく取材内容でした。
まぁそんなところをバカ正直にブログで書いてもつまらないので、当時はおもしろおかしく書き綴りましたけど、つまりそういうことです。うちのような個人ブログですら読者を気にして少しは面白く脚色しとこう、みたいなところがあるわけです。
これは人づてに聞いた話ですが、多くのメディアから取材を受けているとあるドーラーさんは「自分が笑い者になってラブドールが普及するならそれでいい」とおっしゃっていたそうです。
また別のドーラーさんからは「メディアへの露出が多い人がまるで全てのラブドーラーの代弁者のように語られるのは我慢ならない。一緒にしてほしくない。」という意見も聞きます。
ラブドールの良さを多くの人に知ってほしい人、ただひっそりと一人で、あるいは少数の仲間内で楽しみたい人、被写体として楽しみたい人、コレクションしたい人、人体錬成()したい人、視聴率が稼げる映像を録りたいだけのメディア、様々な思惑が重なって一見ややこしく見えますが、ひとつ確実に言えるのは「ラブドーラーとはこういうもの」というレッテル貼りなんて誰も望んでいないということです。

こんな可愛いラブドールさんたちを世に輩出してくれて感謝で一杯ですが、時折眉をひそめたくなるコメントを出すメーカーの中の人もいます。
おそらくメディアに誘導されたからだとは思いますが、「性犯罪に走らせないためにもラブドールが必要だ」的なコメントをしているメーカーを見ると呆れてしまいます。

ラブドールがあるから犯罪に走る?ラブドールがあるから犯罪に走らない?
暴力的なテレビゲームをするから云々、というくだらないこじつけに似ていませんか。
犯罪に走る走らないはその人の資質の問題でしかないですよ。
たしかに環境によって人の考え方が誘導される部分があるとは思います。割れ窓理論と同じで、犯罪が許容されるような環境があるのはよろしくない。
身近なところだとTwitterがわかりやすいでしょうか。写真や人の描いた絵を勝手に使うのはいけないこととわかっているハズなのに、あの人も使っているから、この人も使っているから、このくらい良いだろ、みたいな。
だからTwitterはなくすべき、ひいてはインターネットが悪いんだ、とはならんですよね。
ラブドールだって同じ。ラブドールのおかげで性犯罪を抑制できている、だなんて言い方は、ラブドールがなければ性犯罪を犯しますよ、と公言しているくらい恥ずかしいことです。
メディアの話からつい熱くなって話が脱線してしまいましたが、こんだけ長いこと書いて言いたいことは結局、ラブドールを愛さなければならない、あるいは愛さなければラブドーラーとは言えない、みたいに感じる必要はないでしょう、ということ。
ただ、それだけだと突き放した物言いになってしまうので、自分の場合の話をします。
ぼくもはじめてシリコンドールをお迎えしたときは「やっちまった…」感が強かったです。だってハゲアタマを可愛いとは思えないし、無表情だし、体は重いし、硬いし、冷たいし…。

こんなモノに60万も出していったいぼくは何をしているんだ、と。
でも好みのウィッグをかぶせ、好みの衣装を着せ、フローラルティアラの8x4を吹きかける頃には彼女を着飾るのに夢中になっていました。

同居人に隠しながらの作業ですから、狭い部屋で肘や膝がついぶつかってしまいます。そのときふと「あ、ごめん」とつぶやいている自分がいました。つぶやいてから自分で自分を笑ってしまいました。
あれだけ冷たい硬いと文句を言っていたのに、気がつけば人のように接しているじゃないか、と。そうなるともう、何かがふっきれて「いーよー、似合ってるよー」とか言いながら撮影しはじめる始末。気分はなんちゃってカメラマンです。
でも愛しているかと問われたら、それはちょっと違うかな、と思います。
愛着はありますよ。例えば誰か知り合いのドーラーさんを家に呼んだとして、勝手にべたべた我が家のドールさんを触りはじめたら怒ります。一言声をかけてくれればオーケーしますけど、無神経に触られるのは腹が立ちます。
勝手に人のデスクの引き出し開けたり、日記帳開いたりしないでしょ。それと同じです。自分が好きなウィッグ、衣装、下着、ポーズ、いろいろこだわっているのだから、それを勝手にいじられたらそりゃ怒ります。
でも、そういう考え方ってただのコレクションっぽいし、自分をドーラーなんてとても言えないと思っていました。
10年くらい前に運営していたブログでそんな思いの丈をブログ記事に綴ったとき、とある読者の方からコメントをもらいました。
と。
素直に白状しますが、最初の1行目を読んだときは「やべーやつきたーwww」くらいに思いました(失礼)。
でも、続く言葉でハッとさせられました。
最初は万物に神が宿るという神道の話かと思ったのですが、そうではなく、ドールの心の半分が自分に、というお話でした。
この話に共感したわけではなく、むしろ逆なのですが、「あ、自分の心の半分がドールさんに」ということなら理解できる、と気が付きました。
深層心理というか、こう言ってほしい、こうあってほしい、という自分でも気が付かない願望が宿っているなぁ…と。
そんなふうに感じてからはより一層ドールさんに愛着を持つようになりました。
だからこそ、というか、ほとんど言い訳みたいなモンですが、新しいドールをお迎えして、古いドールを手放すことに躊躇がなくなりました。
何体いようとも、逆に一体もいなくなったとしても、ぼくの中でのドールさんは自分の半身なのだから、と。
悪いクセで、ついつい脱線して長くなってしまいました…。
相談を送ってくださった方が「ラブドールを愛さなければならない」とある種の強迫観念のようなものに囚われてしまった理由はわかりませんが、それがもし「他のドーラーさんはドールさんを嫁として扱っていて幸せそうだから」とか、「そうじゃないとドーラーじゃないから」といった理由なら、それはいったんリセットして自分がどうしたいのかを考えたほうが良いんじゃないかなって思います。
愛着すら持てない、という意味なら、もしかしたら単にお顔が好みじゃないとかボディに魅力を感じないとか、そういう理由かも知れません。
せっかく我が家にきたのだから愛でなければ!という義務感でストライクゾーンから外れていても大事にしようとする人はいますし立派だとは思いますが、誰にでも出来ることではありませんから。
実際ぼくには無理です。どうしても愛着がわかなくて手放したラブドールも何体かあります。なんで手放しちゃったんですか、と責めるような物言いをされたこともありますが、ぼくの中でのドールさんは半身なので気持ちの上で手放したことなんて一度もないんです。ボディが変わってるだけ。
ずるい言い訳ですけどw そういう折り合いをつけていくのもまたドーラーなんじゃないかなって、そう思いますよ。


自分好みの衣装を着せたり、一緒に入浴したり、話しかけたり、「努力」してもモノという感覚から離れられず、ラブドールを愛していると言えるほどの存在には感じられない。彼女を愛したいと真剣に必死で思っているのに、という相談です。
ハンドル名もメールアドレスの記載もなかったため、こちらの記事で回答させて頂きます。
問題があれば(記事にはしてほしくなかった!等)この記事を撤去しますので、お知らせください。
先にぼくの率直な感想を言ってしまうと、モノと認識して何が悪いのかということです。日本人はモノの擬人化とか超得意じゃないですか。「モノごころモノむすめ」とか大好物なんですケドw
…………なんてことを言っても話が進まないのでw
なぜ愛さなければいけないと感じてしまったのか、少し掘り下げて考えてみたいと思います。
ぼくのドールさんに対する考え方は今までも散々このブログで書いてきましたし、古くから読んでいる方にとっては耳タコな話かと思いますので、古参の方はスルー推奨ですw
個人ブログの影響
ラブドールは良くも悪くもニッチなジャンルですし、どう言い繕ってもホールポケットがある以上、アダルトグッズですので、大手メディアでは扱いづらく、必然的に個人ブログの影響が大きくなります。
また、(ぼくも含めて)個人でブログを立ち上げてまで主張したいことがある人間なんてそりゃ一癖も二癖もあります。ありまくります。
実際、ぼくがはじめてラブドールを知った頃、実物は本当にこんなに美しいのか、またどんな人が購入しているのだろうかと片っ端からブログを読み漁りましたが、妄想日記ブログの多いこと多いこと。
正直に書きますが、はじめてラブドールブログでドールとオーナーの寸劇を読んだときは鳥肌が立ちました。無機物に話しかける様を想像すると、なにか宗教的儀式のようにすら思えたからです。
(むしろラブドールのぶっかけ写真を公開している人のほうが理解できましたw)

でも、そんなふうに引いてしまったのも最初の数件のブログ記事を読む間だけのこと。様々な種類のブログを読んでいくと、だんだんとこれは創作小説と何が違うのだろう、と思い始めました。
これを気持ち悪いと言ったら、小説家、作家、想像力の翼を広げるすべてのクリエーターを否定することになるのでは、と。
もちろん全員が全員想像力豊かで、ラブドール官能小説、あるいはラブドール恋愛物語を書き綴っているわけではありません。そういう人もいれば、そうでない人もいる。心からドールさんに魂が宿っていると信じている人だっているでしょう。
単にぼくは個人的に前者(妄想作家)なら理解できるし、自分もやってみたいな、と思ったというだけの話です。
マイナーな趣味同士、同じことを同じ目線で語り合えるのは嬉しいですし、楽しいことですから、見知ったブログでやっていることを自分も同じようにやらなければならないと錯覚するのも仕方ありませんが、なにもすべてを受け入れなくたって構わないでしょう。
みんなラブドールときゃっきゃうふふしてるし、楽しそうに脳内会話してるし、自分もラブドールをお迎えしたらそうなるハズ!そうしなきゃ…なんでそうできないんだ…!! そんなふうに思い悩むのはちょっと違う気がします。
単にアダルトグッズとして、あるいは着せ替え人形として、カメラの被写体として楽しんでいる人だっているし、それらを複合的に楽しむ人もいる。
なんだったら毎日違っても良いじゃないですか。昨日はドールさんとの妄想会話を楽しんだけど、今日は単に被写体として楽しむ。好きにすれば良いのです。ブロガーの真似をする必要なんて全くありません。
メディアの功罪
ブログもメディアといえばメディアですが、もっと一般向けのテレビや雑誌でも度々ラブドールが取り上げられることがあり、そこで目にしてラブドールの存在を知ったという人も少なからずいるハズです。そういった意味ではラブドールがメディアに露出するのは悪いことばかりではありません。
でも、深夜のテレビ番組で、ラブドールとちゅっちゅする独身男性を取材する番組があり、これには閉口しました。実際、メディアが求めるのはわかりやすいインパクトなんですよね。
さもラブドールを恋人あるいは嫁として扱うのが当たり前かのように喧伝されますが、決してそういう人ばかりではありません。
ぼくも以前の記事で書きましたが、ブラジルのテレビ局から取材の申し込みがあり、自宅で取材させてくれないか、顔は隠すのでラブドールと一緒のところを映させてもらえないか、動画がダメなら写真でもいい、とグイグイこられました。
最終的にラブドールの写真提供と音声取材だけなら協力しても良いよ、と妥協点を見出しましたが、相手はかなり不満そうでしたね。
質問の内容も名前は付けているのか、普段呼びかけているのか、どこを好きになったのか、人間と変わらないように見えるし、この子を彼女と感じても不思議ではないと思うがどうか、とだんだんとむこうの都合の良いように誘導されていく取材内容でした。
まぁそんなところをバカ正直にブログで書いてもつまらないので、当時はおもしろおかしく書き綴りましたけど、つまりそういうことです。うちのような個人ブログですら読者を気にして少しは面白く脚色しとこう、みたいなところがあるわけです。
これは人づてに聞いた話ですが、多くのメディアから取材を受けているとあるドーラーさんは「自分が笑い者になってラブドールが普及するならそれでいい」とおっしゃっていたそうです。
また別のドーラーさんからは「メディアへの露出が多い人がまるで全てのラブドーラーの代弁者のように語られるのは我慢ならない。一緒にしてほしくない。」という意見も聞きます。
ラブドールの良さを多くの人に知ってほしい人、ただひっそりと一人で、あるいは少数の仲間内で楽しみたい人、被写体として楽しみたい人、コレクションしたい人、人体錬成()したい人、視聴率が稼げる映像を録りたいだけのメディア、様々な思惑が重なって一見ややこしく見えますが、ひとつ確実に言えるのは「ラブドーラーとはこういうもの」というレッテル貼りなんて誰も望んでいないということです。

ラブドールメーカーの功罪
こんな可愛いラブドールさんたちを世に輩出してくれて感謝で一杯ですが、時折眉をひそめたくなるコメントを出すメーカーの中の人もいます。
おそらくメディアに誘導されたからだとは思いますが、「性犯罪に走らせないためにもラブドールが必要だ」的なコメントをしているメーカーを見ると呆れてしまいます。

ラブドールがあるから犯罪に走る?ラブドールがあるから犯罪に走らない?
暴力的なテレビゲームをするから云々、というくだらないこじつけに似ていませんか。
犯罪に走る走らないはその人の資質の問題でしかないですよ。
たしかに環境によって人の考え方が誘導される部分があるとは思います。割れ窓理論と同じで、犯罪が許容されるような環境があるのはよろしくない。
身近なところだとTwitterがわかりやすいでしょうか。写真や人の描いた絵を勝手に使うのはいけないこととわかっているハズなのに、あの人も使っているから、この人も使っているから、このくらい良いだろ、みたいな。
だからTwitterはなくすべき、ひいてはインターネットが悪いんだ、とはならんですよね。
ラブドールだって同じ。ラブドールのおかげで性犯罪を抑制できている、だなんて言い方は、ラブドールがなければ性犯罪を犯しますよ、と公言しているくらい恥ずかしいことです。
映し鏡という考え方
メディアの話からつい熱くなって話が脱線してしまいましたが、こんだけ長いこと書いて言いたいことは結局、ラブドールを愛さなければならない、あるいは愛さなければラブドーラーとは言えない、みたいに感じる必要はないでしょう、ということ。
ただ、それだけだと突き放した物言いになってしまうので、自分の場合の話をします。
ぼくもはじめてシリコンドールをお迎えしたときは「やっちまった…」感が強かったです。だってハゲアタマを可愛いとは思えないし、無表情だし、体は重いし、硬いし、冷たいし…。

こんなモノに60万も出していったいぼくは何をしているんだ、と。
でも好みのウィッグをかぶせ、好みの衣装を着せ、フローラルティアラの8x4を吹きかける頃には彼女を着飾るのに夢中になっていました。

同居人に隠しながらの作業ですから、狭い部屋で肘や膝がついぶつかってしまいます。そのときふと「あ、ごめん」とつぶやいている自分がいました。つぶやいてから自分で自分を笑ってしまいました。
あれだけ冷たい硬いと文句を言っていたのに、気がつけば人のように接しているじゃないか、と。そうなるともう、何かがふっきれて「いーよー、似合ってるよー」とか言いながら撮影しはじめる始末。気分はなんちゃってカメラマンです。
でも愛しているかと問われたら、それはちょっと違うかな、と思います。
愛着はありますよ。例えば誰か知り合いのドーラーさんを家に呼んだとして、勝手にべたべた我が家のドールさんを触りはじめたら怒ります。一言声をかけてくれればオーケーしますけど、無神経に触られるのは腹が立ちます。
勝手に人のデスクの引き出し開けたり、日記帳開いたりしないでしょ。それと同じです。自分が好きなウィッグ、衣装、下着、ポーズ、いろいろこだわっているのだから、それを勝手にいじられたらそりゃ怒ります。
でも、そういう考え方ってただのコレクションっぽいし、自分をドーラーなんてとても言えないと思っていました。
10年くらい前に運営していたブログでそんな思いの丈をブログ記事に綴ったとき、とある読者の方からコメントをもらいました。
ドールってね、憑代(よりしろ)なんですよ。(私はそう思ってます。)
と。
素直に白状しますが、最初の1行目を読んだときは「やべーやつきたーwww」くらいに思いました(失礼)。
でも、続く言葉でハッとさせられました。
ドールの心(精神)は半分がその体に、半分が持ち主の心の中に仮住まいとして宿るんだと思ってますよ。
持ち主が、ドールに手を入れれば、ゆっくりと憑代は半分に分かれながら、宿ってくるんです。
でも、そのドールに興味を失い、ただのモノとして認識した瞬間に持ち主の中にいた仮住まいのドールの心(精神)は居場所を失って抜けていきます。
最初は万物に神が宿るという神道の話かと思ったのですが、そうではなく、ドールの心の半分が自分に、というお話でした。
この話に共感したわけではなく、むしろ逆なのですが、「あ、自分の心の半分がドールさんに」ということなら理解できる、と気が付きました。
深層心理というか、こう言ってほしい、こうあってほしい、という自分でも気が付かない願望が宿っているなぁ…と。
そんなふうに感じてからはより一層ドールさんに愛着を持つようになりました。
だからこそ、というか、ほとんど言い訳みたいなモンですが、新しいドールをお迎えして、古いドールを手放すことに躊躇がなくなりました。
何体いようとも、逆に一体もいなくなったとしても、ぼくの中でのドールさんは自分の半身なのだから、と。
まとめ
悪いクセで、ついつい脱線して長くなってしまいました…。
相談を送ってくださった方が「ラブドールを愛さなければならない」とある種の強迫観念のようなものに囚われてしまった理由はわかりませんが、それがもし「他のドーラーさんはドールさんを嫁として扱っていて幸せそうだから」とか、「そうじゃないとドーラーじゃないから」といった理由なら、それはいったんリセットして自分がどうしたいのかを考えたほうが良いんじゃないかなって思います。
愛着すら持てない、という意味なら、もしかしたら単にお顔が好みじゃないとかボディに魅力を感じないとか、そういう理由かも知れません。
せっかく我が家にきたのだから愛でなければ!という義務感でストライクゾーンから外れていても大事にしようとする人はいますし立派だとは思いますが、誰にでも出来ることではありませんから。
実際ぼくには無理です。どうしても愛着がわかなくて手放したラブドールも何体かあります。なんで手放しちゃったんですか、と責めるような物言いをされたこともありますが、ぼくの中でのドールさんは半身なので気持ちの上で手放したことなんて一度もないんです。ボディが変わってるだけ。
ずるい言い訳ですけどw そういう折り合いをつけていくのもまたドーラーなんじゃないかなって、そう思いますよ。












